Mania――狂気的な愛――
愛情の形なんて、表現方法なんて人それぞれでしょう?
私は、この形が異常なんて思わないし、狂気だなんて感じない。
誰も分かってくれなくていい。
ただ、私は彼を愛してるの―――――
「ほら、すっごく月がキレイ」
男の声が部屋に溶ける。声をかけられた女は、もぞもぞとベッドで身動ぎながら、ゆっくりと瞼を押し上げると、緩慢な動作で上体を起こした。一糸纏わぬ姿の女の肌が、暗闇の中に浮かび上がる。
ジャラ、
金属――鎖の音――、その端はベッドの足に固く結ばれ、逆端は女の首に嵌められた鮮やかな紅い首輪に着けられていた。
女が動く度に鳴る鎖の音に、男はうっとりという言葉が似合う表情でその音を聞きながら女に近寄り、ベッドサイドに膝を付く。そっと、腕を伸ばして女の頬に触れ、逆の手で女の腕を引くと身体を自分の胸に寄せると、そっと耳元で囁いた。
「愛してるよ」
その言葉に、今度は女がうっとりした表情を浮かべる。
両腕を男の首に回すと、首筋に顔を埋めた。
「私も、貴方だけを愛してる」
寄せた唇の甘さに酔いながら、そのまま二人はシーツの海に溺れた。
真っ暗な部屋、真っ白なシーツのダブルサイズのベッドが唯一の家具で、窓から差す白みを帯びた月の光だけが二人を照らした。
(昔は、)
女は、情事の後の気だるい気分のまま、天井を眺めながら考える。
(そう、昔は……)
この部屋には本棚や、クローゼットなどの家具があった。照明も暖かい光を放っていて、女の首に首輪も、鎖も無かった。二人の間にある愛も、今と形が違っていた。
それでも、昔の方が良かったなんて思わない。
隣に在る温もり。昔は、その存在が遠い気がしてとても不安で、繋ぎ止めるのに必死だった。言葉で、身体でお互いを確かめ合うだけでは拭いきれない心の闇。
「愛してる」なんて言葉は、いつしか義務的にすら思えてきて、お互いの中で何かが崩れた。
切欠が何だったのかなんて、今じゃはっきりとは思い出せないが、多分、女が他の男と笑顔で話していたことだったのではなかっただろうか。
想いに比例するように募る不安に、心が耐えれなかった。
『俺が居ながら、他の男まで誑しこんで』とか、『売女』とか、悪口雑言を投げつけられた。そして、半ば引き摺られるようにこの部屋に連れてこられ、貪るように身体を蹂躙された。抵抗は全て封じ込められ、静止の言葉にも、悲鳴近い声にも、止め止め無く溢れる涙にも、男は耳も目も貸さなかった。
でも、そのとき何度も繰り返された「愛してる」の言葉は、今までのどれよりも――それこそ、初めて告白されたときよりも――とても心に響いて、歓喜した。
そして、自分自身が彼を愛しているのだと強く感じることができた。
それから、この傍から見たら狂っていると言われるような関係が続いている。カレンダーも時計もないので、どれだけの月日が経ったのかは分からない。
外界からは完全に遮断された空間。
隣に横たわる身体に触れる。触れた指先から伝わる熱に、更に愛おしさが募る。
昼間、男はこの部屋に、この家に居ない。仕事があるから。だから、女はこのベッドと男の存在を誇示するような香りしかない部屋に置き去りにされる。それが、この空間に対する唯一の不満。
(出たいとは思わないけど、)
それでも、寂しいとは思う。そのうち、離れていては呼吸すらできなくなるんじゃないかと本気で考えてします。
「……どうした」
何度も、何度も繰り返し男の髪を梳いていた手を掴まれる。心配の色を孕んだ瞳に見つめられ、吸い込まれるかのように唇を重ねた。
啄ばむように、性的な色が全く感じられない優しい口付け。男は抵抗もせずに女の行動を見守る。
「愛してるの」
身体を起こし、男を見下ろしながら告げられた言葉に、男も起きて女を抱き締めた。
ジャラリ、と鎖が音を立てる。
「どこに行ってもいい。……でも、ここに帰ってきて」
夜は不安じゃない。不安なのは昼間で、愛しい男(ひと)が傍に居ない時間。眠っていれば夢で会える。でも、起きている間は残り香に包まれて、ただ枕に顔を埋めて過ごす。
祈りような言葉。男の胸板に顔を埋めて、穏やかな鼓動を聞く。男の腕の力が強まったのを感じて、女も自らの腕を男の背に回した。
「帰ってくるよ。俺の唯一無二の居場所は君なんだから。俺たちは比翼の鳥なんだから」
募っていく想いは口に出さないと心の中でパンクしてしまいそうで、それがとても怖い。
「ここに居る?」
「居る。だから、君も傍に居て」
「うん、私はどこにも行かない……行けないよ」
昇るときも堕ちるときも、常に共に。
誰に何を言われても、この関係を止める気はない。もう、後戻りはできないしする気もない。
離れてしまったら、きっと死んでしまう。独りじゃ呼吸もできない。でも、窒息するより先に体中の水分が足りなくなって死んでしまうんだと思う。乾涸びて、ミイラになって、自分が誰なのか誰にも分かってもらえず。
「このまま、」
「うん」
「このままね、いっそ消えてしまえたら幸せなのに」
「二人で、一緒に?」
「もちろん」
「それは、幸せだね」
何一つ残さず、愛し合った記憶も想いも、お互いの中にだけ在ればいい。
抱き締める男の手が首輪に触れる。
「苦しいよね」
僅かに揺れた瞳に、女は首を横に振る。それは紛れもない本心で、この首をと鎖を苦しいとも、邪魔だとも思ったことはない。あるのは本当に喜びだけだ。
「貴方の方が苦しそう」
男を目に見えないで縛り続けていることには気付いていた。
「俺が苦しいのは、君を愛しすぎてるからだよ」
「なら、私と一緒だ」
二人で笑い合う。一緒に微かな音を立てる鎖。それはこの空間と一緒でとても心地よかった。
手放せないのはお互い様。
このまま、二人で堕ちて行こう。深い深い海の底へ。
そして、いつか重さに耐えきれなくなったら一緒に潰れてしまおう。
そうして、二人で昇って行こう。高い高い空の上へ。
そして、いつか重力から開放されて何者にも邪魔されずにここから飛び立とう。
「愛してる」
もう、その言葉に何の不安もない。でも、実際はその言葉に意味もない。だって、それはただの鎖でしかないから。
「ずっとずっと傍(ここ)に居る」
|