Agape――愛他的な愛――


 薄暗い店内に煌くアジアンテイストの照明が、温かい夕焼けを思わせる色で、とても落ち着いた気分になる。それが、この店を気に入った一番の理由だ。
 衝立のの向こう側からは、ガヤガヤ、時には大きな笑い声を漏らしながら、本日の業務を終えたのだろう人々が開放的な気分に浸っている。カウンター席に座る自分もその一人なので、目の前に運ばれた見目鮮やかなお酒を一口、口に含んだ。
 口内に広がる果実の香りと酸味、それに程よいお酒の味が加わって、心の底から息を吐く。
「疲れてるね、」
 隣で、見てる方が幸せになりそうなほどの表情でジョッキのビールを傾けていた男が、その表情を曇らせてこちらを見る。
「何か、悩み事?」と、話してほしそうな声で問いかける男に隠し事ができないことは重々承知なので、一呼吸置いてから口を開いた。
「妊娠、三ヶ月なんだって」
 男がどんな反応を返すか分かっていながらわざと主語を抜いた。そして、聴いた瞬間、予想通りの表情を見せてくれた相手を前に、写真に収めることができなかったことを心底悔いていた。
(人が固まるって、こういうことなんだろうなぁ)
 思考が飛ぶのは悪い癖だ、と昔から友人に言われ続けていたので自覚はある。が、それを直すことはできなくて、もう既に諦めた。
「え……、えぇ―――っ」
 騒がしい店内の音を全て掻き消す声。
 思わず耳を塞いだが、時既に遅し。頭に響く音を紛らわすかのようにもう一口、お酒を飲む。一気に視線が集まっている気がするのは、決して気のせいではないだろう。
「だめ」
 力強い声。そして、持っていたグラスは男の手によって奪われてしまった。
「三ヶ月って……大事な時期に、お酒飲んで、って、その前にこんな煙草臭い所で……」
 未だパニック状態の中にあるらしく、言動が不自然だが、とにかく身体を大事にしろと説教する。
「いやね、」
「口答えしない」
 弁明しようと開いた口は、厳しい一言によって遮られる。
 ちょっと遊びすぎた自分を呪いながら、口を挟むタイミングを狙う。
 ただ、「誰の子供?」なんて聞かない男に、思わず惚れそうになったことは絶対に言ってやらない。というか、本当に私が妊娠しているのかすら疑わない男の純粋さに、罪悪感すら抱いてしまう。
「ごめん、」
 言おうとした言葉を先に言われ、一瞬戸惑う。
「なんで、なんで謝るの?」
 胸が痛かった。
「ていうかね、私じゃなくて友達の話なんだけど」
「……」
 再度固まった男。ただ、次第に表情が歓喜と落胆の入り混じったものになり、これはこれで罪悪感がジクジクト自分を責め立てる。
「友達って、あの子?」
 確信を持っている目だった。だから、否定しても信じてもらえないだろうし、何より事実間違っていないのだから素直に頷いた。
 男が知っている私の友人はその一人なのだから仕方ないことだ。
「じゃあ父親は……」
 それも何も言わずに頷く。
「そっか、」と言ったっきり黙る男。ただ、そっと戻ってきた自分のグラス。その表面の水滴を指でなぞりながら男が何かコメントをくれるのを待つ。
 言葉をかけあぐねていることは十分伝わってきた。自分も同じ立場だったらきっと何も言えないと思う。それ程までに私たちは複雑な関係だ。複雑にしている張本人が言えた義理ではないけど。
「アイツは知ってるの?」
 アイツ、と言うのは友人の相手。そして自分たちの同僚だ。
「まだみたい、今こっち居ないから」
 新人教習のために本社を離れている男を思い浮かべる。有能な男だ、というのは認めているが、女に誠実かと言えば答えはNOだ。自分が知るだけでアイツには二股をかけている。そして、何を隠そうもう一人は私だ。
「……別れるの?」
 その言葉を発するのにどれだけの力を振り絞ったのだろうか。
 自分以上に不安な顔をする男に、ずっとずっと燻っていた想いが形を作り上げようとする。
「だって、仕方ないじゃない」
 友人はとても良い女(こ)で、明るくて、気立てがよくて、周囲から「いい奥さんになるよ」っと言われるタイプだ。そして、女友達の間でも好かれている。
 敵うわけないと思う。

 昨日、家にやって来た友人を思い出す。
 最近では休日返上で出勤していたため久々の休みで、時計の針はじきに午後を指そうというのに、帰宅したのが午前様というのもありベッドの中で惰眠を貪っていた。
 ピンポーン
 それは平和な休日の終わりを告げる音だった。
「妊娠したの……」
 部屋に上がるや否や、そう切り出した友人に、先ほどの男のように私も固まった。「誰の?」なんて訊かなくても分かっていたから。だから、何も知らない振りをした。
「それって、私の同僚って彼の?」
「うん、」
 頷く彼女に何の迷いもなかった。
「それで……言ったの?」
「まだ。電話じゃ言いたくないし」友人は言う「……怖い」と。
 もうどうしていいか分からなかった。ただ、心の中で男に向かって「助けて」と叫んでいたと思う。
 しばらく沈黙が続いた後、友人は立ち上がり、「急にごめんね」と言って帰って行った。
 見送りもできず、ただ、扉の閉まる音を聞いていた。全てが夢のようで、自分がどこに居るのかすら分からなかった。
 唯一、自分が涙を流していないのだけははっきりと分かった。

「でも、」
 男が何を言いたいのかは分かる。
 アイツと最初に付き合っていたのは私で、浮気を知ったときその相手が友人だったことに世の中の不条理さを呪った。
 何より出張に行く前の言葉が耳から離れない。
「結婚しよう」とアイツが切り出したのは今から僅か五日前。それに涙を流すほど喜んだのも、男にきちんと関係を清算しようと話をしてからまだ一週間も経っていない。
 帰ってから、と指輪も何も無く、今ならただの口約束。きっと友人の妊娠を知れば自分は意図も簡単に捨ててしまわれるのだろう。それに対して自分は物分りのいい振りをして、何も知らない振りをして、平気な振りをして、「バイバイ」って言うのだろう。
 浮気を知っているのをアイツは知らない。
 その前に、アイツは浮気相手が私の友人であることすら知らない。
 友人はアイツと私が同僚と知っていはいるが、アイツに嫌われたくないのか私に相談していることを黙っている。
 ある意味世の中は上手く回っているのかもしれない。
(結婚式には行けないなぁ)
 再び思考が飛んでいく。
 アイツは私になんて言うんだろう、なんてどうでもいいこと考える。
「ごめんね」
 今度はきちんと謝った。
 男を巻き込んだのは私だ。全てを知って心配してくれる心につけ込んで、甘えて、アイツと同じことをして、させている。
「自分を押し殺さないで、俺の前だけでも我侭言ってよ」
 泣きそうになる。
 優しすぎて甘えてしまう。
 二股かけさせて、都合のいいときにだけ甘えて、更には「結婚するから」と一方的に別れを告げた女に、なぜかんなにも優しくできるのか、自分を押し殺してるのは男の方だと思う。
「彼女は?」
 卑怯な問いかけ。
 田舎から就職のために出てきた男には遠距離中の恋人が居る。「大事な人なんです」と、初めて会った頃ははにかみながら言っていたのに。
「別れた」
 頭の中がグチャグチャでパニックを起こしている。
 「いつ?」とも「なぜ?」とも訊けなかった。原因が自分であることは分かりすぎていて、でも、今度は謝ってはいけないことだけは確信できた。

 ずっと、自己犠牲なんて馬鹿みたいだと思ってた。
 それは今も変わらないけれど、それだと自分の愚かさを認めてしまうみたいでずっと逃げてきた。
 男は私が自分を押し殺してるというけれど、それは男も同じことで、今まで大切にしてきた人まで犠牲にして、心の中では罪悪感と戦っているのだろう。
 友人も言いたいことを我慢して、きっと、「子供を堕ろしてほしい」と言われたら、どんなに望んでいてもアイツの言うとおりにするのだろう。
 アイツも、何かを犠牲にしてきたのかもしれない。

 それでも、私たちにアイツを責める権利はないのかもしれない。少なくとも私にはない。
 私たちは恋愛のために色んなことを我慢している。でも、それは自ら望んでやっていて、傍から見たら滑稽なんだろう。

「俺の彼女になって下さい」
 頷けるわけがないのにどこかで頷きたいずるい自分が居る。それに気付いて心底自分が嫌になる。最低だって思う。
「俺を利用して下さい」
 そっと頬に触れた手が僅かに震えていて、涙が止まらなくなった。
 忙しく働く従業員も横に並ぶ客も、全てが筒抜けで、先ほどの男の叫びも加わっているため、聞き耳を立てていたものも居るだろう。漸くそのことに気付いた男が、「出よう」と席を立つ。それに力なく頷いて、財布を出そうとした手は男に止められた。
 そっと背中を押されて、「先出てて」と耳元で囁かれて、ゆっくりと外に出た。
 見上げた空に輝く月が温かくて、少しずつ自分が落ち着いていくのを感じた。
「お待たせ」
 出てきた男に一瞥をくれて先に歩き出した。
 行き先は、自分の家。男を入れるかどうかは考えあぐねていたが、何となくそうした。
「さっきの話、」一歩後ろを行く男が、寂しげな感じのする声で「本気なんだけど」と言う。
「うん、」
 頷くしかなくて、落ち着いたとはいえやはり混乱してる。今の気分で答えを出しちゃいけないと思う。
 何より、心のどこかでアイツが私を選んでくれるんじゃないかって、一パーセントにも満たない望みを捨てきれない。
「ごめん」
 これ以上男を犠牲にしてはいけない。なんて今更だ。
「ずるい言い方だけど、俺にはもう何もないんだ」
 今まで大切にしてきた想いを捨てて自分を選んだ男。自分が彼を捨ててしまえば、彼の手には何が残るのだろうか。
「どうせ犠牲にするなら、俺を犠牲にしてよ」
 その言葉に私は完全に堕ちた。
 男の腕の中で何度も何度も頷いて、必死にしがみついた。
(手放せない)
 アイツに捨てられるのは覚悟できてた。でも、この男に手を離されることを想像すると怖くて仕方がない。先に手を話したのは自分の方なのに。

 帰って来たら、アイツが帰って来たら、「さよなら」を自分で言おうと思う。
 何を犠牲にしても、この男を守っていきたいと思ったから。
 色んなものを犠牲にして、それでも私たちは歩いていく。

 

 

←お題

 

 

 

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送