Ludus――遊びの愛――


「別れましょう」
 音を立てずにティーカップを持ち上げる優雅な姿と、取っ手を握る白くスラリとした指に目を奪われていた俺の耳を、その言葉が通り抜けた。
「……はあ?」
 僅かな間の後、漸く言葉を理解して、「何言ってるの」と、信じられないといった表情のまま言葉の主に目を向ければ、彼女は相変わらず優雅な姿を保ったまま、そっと紅茶に口付けていた。
 その表情はとても穏やかに見えて、微笑みすら浮かんでいた。
(じょう、だん……?)
 じゃないことは男も決して短くない付き合いをしてきた上で十分理解している。しかし、混乱する頭では今の状況を上手く整理できないでいる。
「なん、で?」
 やっとのことで言えた言葉は、不自然に途切れた。
 心の中では「嫌だ」と必死に叫んでいるのだが、それは言葉に出さなかった。
 ちっぽけな見栄だ、と言われればその通りなのだが、それでもプライドを守りたかった。
「私、負けず嫌いなの」
「……は?」
 一瞬はぐらかされたのかと思ったが、どうやら彼女は至極真面目らしく、ソーサーにカップを戻すと、しっかりと男を見据えて言葉を続ける。
「恋は惚れた方が負けなんでしょう?」彼女が言う。
「だから、負ける前に降りることにした」
 喜んでいいのか、やはり悲しむべきなのか、混乱は収まるどころかどんどん収拾がつかなくなっているのが十分過ぎるほど分かる。
「つまりさ、」
「このままだと、本気で惚れそうなの」
 俺の言葉を先回りして答える。よくできた彼女だ、なんてしみじみと感じる。
 何となく、自分が現実逃避に走っている気がしなくもないが、そんなことはないと言い聞かせる。
「でも、それって裏を返すと、今まで俺に惚れてなかったの?」
 自惚れていたわけじゃないけど、それでも少なからず好きでいてくれてるとは思っていたのに。
「まあ、ぶっちゃけ遊びだね」
(遊ばれてたんだ……)
 漫画なんかで、膝を抱えて”のの字”を書く登場人物の気持ちが痛いほど分かる。もう、背中に一トンの錘でも乗っかってる気分だ。
 しかし、そのあまりにも無邪気な顔に、頭から怒るという選択肢はすっかり抜け落ちた。もう、溜息を吐くしかできなくて、心の中で彼女を許している自分に気付き、更に溜息を吐いた。
 どれだけ自分が彼女に惚れているのか、今更なことをこれでもかというほど認識させられて、それでも気持ちだけは先ほどの混乱がまるで嘘のように落ち着いていた。
「じゃあさ、」
 今度ははっきりと言葉を発することができた。
 そんな俺の態度の変化に、彼女が少し意外な表情を向けた。
「なに?」とは、俺の言葉。多分、彼女の方が言いたかったのだろうが、その表情に思わず自分で呟いたしまった。
「いや、……」
 今度は彼女が言葉に詰まる番で、「怒られるかと思った」と、僅かに俯く。すっかり形勢逆転だ。
 怯えを孕んだ表情に、燻っていた嗜虐心が顔を上げた。
(俺って、実はサドだったのかなあ)
 別に自分がマゾヒストだとは思っていなかったが、少なくとも”好きな子いじめ”なんてことは今まで一度もしたことがなかった。
 やはり、まだ思考が散乱しているらしい。
「てかさ、」
 疑問に思っていたことを口にする。
「とっくの昔に俺が負けてるんじゃないの?」
 話の流れに着いて行けないのか、彼女の困惑の表情は益々色濃くなっていく。
「だから、惚れた方が負けなんでしょう?」
 なら、とっくに自分は負けている。
 何せ、遊びといわれた怒りが、本気になりそうなんて曖昧で不確かな言葉だけで打ち消されてしまう程度には俺は彼女に惚れ込んでいるのだから。
「あ、そっか」
 初めて気付いた、と納得する彼女に、溜息再来。
(本当に、敵わないなあ)
 それ以前に、勝てる気が全くしないなんて問題だろうか。やはり、俺は強気な彼女の方が好きらしい。決して、マゾじゃないぞ、と再度自分に言い聞かせる。
「で、」
「で?」
 何だ、という表情の彼女。どうやら先を読むのは止めてしまったらしい。
 しかし、澄ました感じ、という表現が似合う普段の彼女とは違い、コロコロと表情を変える彼女に新鮮味を感じてしまう。
「別れるの?」
「うん、」
 間髪入れずの返答に、背中の錘が重く圧し掛かる。
「俺もう負けてるのに、負けてる人間目の前にして逃げ出すの?」
 挑発的に言ってみる。すると、案の定彼女の表情に不機嫌の色が宿った。本当に、筋金入りの負けず嫌いだ。それを利用した俺には何も言う権利はないのだけど。
「俺とさ、ゲームしない?」
「ゲーム?」
「あと一ヶ月だけでいいから付き合って」
 今度は俺の言葉の先を察してくれたらしい。彼女の眉間にくっきりと皺が刻まれた。悩んでくれてるみたいで、少しホッとする。あとは、止めの一言。
「勝てる自信ない?」
 ピクリ、と彼女の眉が動いた瞬間、(勝った)と心で呟いたのは、もちろん彼女には内緒だ。そして、彼女の視線が俺の瞳を捕らえた。
「その期間、君が俺に惚れたら俺の勝ち。別れるって気持ちが変わらなかったら君の勝ち」
 俺も、最大限の想いと意志を込めて彼女を見つめ返した。
「……一ヶ月、ね」
 決定打。彼女が落ちた瞬間、心の中ではガッツポーズ。
 自分でも不思議なほどに心にある自信。負ける気がしないって言葉が物凄くよく分かった。
「じゃあ、次はいつデートしようか」
 そして、今日までと同じ関係に戻る。彼女も、すっかりいつも通りだ。
「来週の土曜」
 有無を言わせないような声色だった。それでも、やっぱり嬉しくて、「分かった」って心からの笑顔で頷いた。
「……負けないからね」
 宣戦布告、なのだろう。睨み付けるような勝気な眼差しに、俺も自信たっぷりの笑顔で返した。

 これはゲーム、遊びの恋愛。
 でも、どんなゲームだって遊びだって、子供たちは必死で、真剣勝負なんだよ。
 だから、真剣に遊ぼう。恋愛という名のゲームをしよう。

 遊びの遊びは終わり、今日から真剣な遊びが始まった。
 二人が席を立った後には、一口だけ飲まれた紅茶と、全く手も触れられなかった紅茶のカップだけが取り残されていた。

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